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asicro column

更新日:2007.2.5

電影つれづれ草
『わが父 溥傑』娘が語る波乱の生涯

 先日、NHKで放送されたある番組を興味深く見た。日本に暮らす65歳になる女性が、中国での父の足跡をたどる旅を追ったドキュメンタリーである。彼女の名前は福永嬬*生(こせい)さん。旧姓は愛新覚羅といい、父は清朝最後の皇帝溥儀の一歳下の弟、溥傑である。

 清朝が滅んだのち、日本の傀儡国家として成立した満州国の皇帝になった溥儀の数奇な生涯は、あまりにも有名なベルトルッチ監督、ジョン・ローン主演の『ラスト・エンペラー』をはじめとして、何度か映像化されている。李翰祥(リー・ハンシャン)監督、梁家輝(レオン・カーファイ)主演の『火龍』は、満州国が崩壊した後、市井の人となった溥儀の後半生に重点が置かれていた。中国で製作されたテレビドラマ『末代皇帝』は、溥傑が監修し、溥儀自身の回想や親族の証言をもとに構成された作品で、溥儀の青年時代を陳道明が、老年時代を朱旭が演じた。

 それに比べると、溥儀の弟である溥傑について知る人は、特に若い世代では少なくなってしまっているかもしれない。しかし、溥傑の夫人は日本の華族出身の嵯峨浩で、自らの波乱の人生を綴った『流転の王妃の昭和史』は、出版当時大きな反響を呼び、今なお、歴史を証言するノンフィクションとして読みつがれている。

 1937年、日本の陸軍士官学校に留学中だった愛新覚羅溥傑は、嵯峨侯爵家の令嬢、浩と見合い結婚をする。二人の婚姻は日本と満州国の親善融和のあかしとして、大きな注目を集めた。しかし実のところは、皇帝溥儀には子どもがいなかったので、弟の溥傑に日本人女性を娶わせ、その間に生まれた男子に満州国の皇位を継承させようという、関東軍の思惑があったといわれている。

 だが、見合いの席で、溥傑は自分の好きな宝塚のスターに似ている浩のあでやかな姿に惹かれ、浩も軍人より学者が似合う溥傑の誠実そうな様子に好感を持つ。政略結婚であったにもかかわらず、二人は愛情と信頼で結ばれた夫婦となり、満州に戻ったのちには、慧生(えいせい)と嬬*生という2人の娘が生まれた。

 しかし溥傑一家の幸福は、1945年8月、ソ連軍の満州国侵攻で破られた。溥儀と溥傑は、空路で日本に逃れる途中、ソ連軍の捕虜となり、そのままソ連に抑留される。浩は皇后の婉容と次女の嬬*生とともに朝鮮半島経由で日本に渡ろうとしたが、中国共産党の八路軍に拘束され、国民党軍の攻撃から逃れる八路軍の移動に伴って、浩たちの流浪の歳月が始まる。その途中で精神を患っていた婉容は悲惨な死をとげ、浩と娘は1947年、上海でようやく自由の身になって、日本に帰国した。

 一方、溥儀と溥傑は1950年、ソ連から中国の新政府に引き渡され、撫順の戦犯管理所に収容された。国交のない日本と中国に引き裂かれた夫婦は、互いの安否を知ることもできなかったが、戦争前に日本に帰国していた長女の慧生が、1954年、周恩来首相に、父との文通を認めてくれるようにとの嘆願書を書き、心打たれた周恩来の計らいで、夫と妻、父と娘は手紙のやりとりができるようになった。

 1960年、溥傑は特赦を得て、北京で生活することができるようになり、翌年、浩と嬬*生は中国にわたって、家族は16年ぶりの再会を果たす。しかし、長女の慧生はその3年前、学習院大学の同級生と天城山で若い命を絶ち、父との再会はかなわなかった。中国に骨をうずめるつもりで夫のもとに戻った浩は、1987年、北京の病院で、73歳の波乱の生涯を閉じる。

 NHKの番組に登場した嬬*生さんの回想によると、溥傑氏は、霊安室で妻のなきがらに覆いかぶさり、「浩さん、浩さん」と呼んで号泣したという。溥傑氏は、その後も北京にとどまり、日本で暮らすことを選んだ次女との間で手紙のやり取りが続いた。番組では、日本語でしたためられた溥傑氏の手紙が紹介されたが、娘を気遣う父の心情が痛いほど伝わってくる。書家としても知られる溥傑氏が、最後に来日した折に娘に贈った書には、次のような一節がある。「万里の長城と富士、どちらも私には美しい。隣り合う二つの国、永久に親しからんことを。」

 1994年、86歳でなくなった溥傑氏の遺骨は、浩と慧生とともに二つに分けられ、中国と、嵯峨家ゆかりの神社がある山口県下関に埋葬された。

 浩の自伝『流転の王妃』は1960年、同名のタイトルで映画化された。監督は田中絹代、脚本が和田夏十、主演の浩役は京マチ子が演じ、溥傑役は船越英二、溥儀役は竜様明。それから半世紀近くもたった2003年には、『流転の王妃・最後の皇弟』と題する5時間半のテレビドラマが製作された。浩には常盤貴子、溥傑には竹野内豊、溥儀には王伯昭というキャスティングだった。

 歴史の重みに押しつぶされそうになり、時代の嵐に翻弄されながらも、家族の絆を守ろうとした溥傑と浩、娘たちの物語は、日中間にさまざまな問題が横たわっている現在、政治的立場や思想の違いを超えて、あらためて私たちに、戦争と平和をめぐる深い問いを投げかけているようだ。

(2006年1月29日)

※文中の名前表記について:
嬬*生(こせい)さんの「嬬」は比較的近い文字を当てたもので、正しい漢字表記は こ です。

text by イェン●プロフィール
大学で西洋の映画の講義などをするが、近頃では、東アジア映画(日本映画も含む)しか受け付けないような体質(?)になり、困っている。韓流にはハマっていない、と言いつつドラマ『大長今』(チャングムの誓い)に熱中。中国ドラマ『射[周鳥]英雄傳』も毎回楽しみで、目下ドラマ漬けの日々。

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●筆者関連本情報:
『男たちの絆、アジア映画
 ホモソーシャルな欲望』
(四方田犬彦・斎藤綾子共編)
 4月刊行 平凡社/2525円

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